『「知」の読書術』教養人が思想の構築を怠れば、反知性主義が物語を語る


世界は混迷を深めている。中東で起こっている血なまぐさい事件の数々は言うに及ばず、東ヨーロッパではウクライナ危機が加速し、アジアでは台頭する中国が帝国主義的な政策の基で、世界秩序に挑戦している。日本もまた、中国の覇権主義の挑戦を受ける形で、自国の安全保障の見直しを迫られている。そんな中、各国の国民の間で再び強烈な民族主義と排外的な感情がその鎌首をもたげ始めている。我々は何を基軸にしてこの時代を読み解けばいいのか。

本著の著者、佐藤優はその答えを教養に裏打ちされた知恵に求める。我々に今求められているのは、真の教養であるという。そして真の教養とは時間という風雪を耐え抜き、なお読み継がれてきた古典の中に存在する。本著は佐藤優が現代社会を読み解くために必要と思われる古典を、関連する現代の書籍なども交えつつ紹介し、それをどのように読みこなすのかを指南するブックガイドだ。

では、我々が生きる現代とはどんな時代なのであろうか。著者はそれをイギリスの歴史学者エリック・ホブズボームの「長い19世紀」と「短い20世紀」という概念の中に求める。「長い19世紀」とはフランス革命が始まる1789年から第一次世界大戦が勃発する1914年までをとし、「短い20世紀」とは1914年からソビエトが崩壊する1991年までという区分だ。なぜフランス革命から第一次世界大戦までが長い19世紀かというと、ホブズボームがこの時代を「啓蒙思想の時代」と考えているからだ。

理性を尊重すれば、理想的な社会を造ることができる。そう考えた当時の人々は、政治的には「民主主義と」と「自由主義」を、経済的には自由経済を基盤とする「資本主義経済」を発展させていった。しかし、行き着いた先は「大量破壊と大量殺戮」だった。ホブズボームはここに時代の区切りを見たのだ。

ホブズボームは「短い20世紀」の時代を『20世紀の歴史―極端な時代』で「破局の時代」「黄金時代」「危機の時代」に分けているという。破局の時代は第一、第二次世界大戦で、ホブズボームはこの戦争を二つの戦争とはとらえず、ひとつの戦争「三一年戦争」ととらえている。危機の時代を乗り越えておとずれた「黄金期」の改良資本主義は結局は行き詰まり、新自由主義へと移行するのだが、この結果も「経済的にもはなはだ悪く、社会的、政治的には壊滅的なものに終わった」とホブズボームは述べているという。

さらにホブズボームはグローバル経済が国家を解体していくにつれ、「知的な無力感」が「絶望的な大衆感情」が結びつき大きな政治的力になっていることを懸念する。この状況は同著が発売されて20年が過ぎた現在もそのまま当てはまる。ここから、佐藤優は「短い20世紀」は未だ終わっておらず、現代は「長い20世紀」のさなかではないか、と仮説をたてる。

「長い20世紀」という危機の時代を生きる我々は、この危機を生み出した近代という時代がどのようなものであったか一度、振り返ってみる必要がある。

近代を読み解くうえで最初に紹介される本がエルンスト・トレルチ著の『ルネッサンスと宗教改革』だ。近代の始まりとされるルネッサンスと宗教改革だが、実はともに真の意味での近代の始まりを意味しないという。初期のプロテスタンティズムはカトリックと同じで国家は宗教に規定される、としていたという。つまり、初期のプロテスタンティズムから近代的の政教分離という思想が直に生まれてきたのではないとトレンチは考察している。

ではなにが人類を近代へといざなったのか。それは、30年戦争の果てに締結されたウェストファリア条約であるという。ウェストファリア条約により国家は宗教という軛から解き放たれた。このことにより、国家が宗教の代わりに共同的目的を供給するようになる。国家が宗教の代用をなすようになった。またウェストファリア条約が締結されたこの時代は「科学革命の時代」とも言われる時代でもあり、科学的合理主義が宗教の代用物としての地位を手に入れた、国家にも合理主義を与えることになる。

しかし、トレルチは「こうした合理主義的な国家像は、不可避的に〝非合理な力〟を生み出してしまう」という。著者はこの言葉こそトレルチの洞察の鋭さだと指摘する。

国民国家や民主主義を発達させた、近代国家が内包する非合理な力の源がなんであるの。そしてそれが、資本主義経済においてどのような効果を生むのか、その結果、何が生じるのか、詳しくは本書を読んで確かめて欲しい。また本著の後半は教養を身に着けるために、電子書籍をいかに使いこなすかといった実利的なハウツー本としても読むこともできる。

啓蒙思想は大いなる光を生んだ。しかし、光が強ければその影の闇もまた深い。啓蒙思想の闇が生み出した非合理な力は、今も私たちの社会を覆っている。そこから生まれる、排外的な思想やヘイトスピーチといった反知性主義が日々その力を増している。そして、この反知性主義は日常的に読書を行う習慣を持つ教養人が、思想の組み立てや教養の構築を怠ることから生まれる隙間を縫うように物語を語り出す、と著者は指摘する。いま身につけるべき教養とはなにか。本著は、現代を生きる私たちが持つべき「羅針盤」がどこに存在するのかを示した、一枚の地図なのである。

HONZより転載
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『娼婦たちから見た日本』哀しみの黒いさざなみ


娼婦。その存在はいつの時代も様々な点で男たちを惹きつけてきた。実直な青年と高級娼婦の愛を描いたデュマ・フィス著『椿姫』や映画『プリティーウーマン』などの作品に私も惹きつけられた。これらの作品に出てくる娼婦は、自堕落な生活を送りながらも本当は純真な心を奥底に秘めた哀れな社会の犠牲者として描かれていることが多い。

多かれ少なかれ、男というものは女性に対して神秘的なものを感じている。金銭の対価として、その美しい肉体を差し出す女性たちに男は下卑た視線を向けながらも、彼女たちがその神秘性と、可憐で清らかな心を失わずにいて欲しいと願っている。

だが、このような虚像をはぎ取った実際の娼婦とはどんな人々なのであろうか。本著は日本に関わる娼婦たちを日本国内に限らず、タイ、チリ、シンガポール、インドネシアと世界各地で取材した力作である。

単純に言ってしまえば、彼女たちが苦界に身を沈めたのは貧困のためだ。横浜の黄金町界隈で、たちんぼうしていたタイ人娼婦ユリは肺を悪くした高齢の父と産後の肥立ちの悪い妹を養うために日本で体を売る。同じくタイ人娼婦ワラポンはエイズに感染し、病気の末期には高熱で憔悴しきった体を引きずりながら新宿や横浜の界隈に立ち、仕送りを続けた。日本で命を引き取る瞬間までお金を送らねばと言い続けたという。「家族のため」それが彼女たちに共通する思いだ。娘を異国の地の男たちに差し出して、その金で暮らす親や兄弟とはどんな人々なのかと感じてしまう。むろんそれは私たちが恵まれた社会に生きているから感じることなのかもしれないが。

著者も気になったのであろう。ワラポンの実家を訪ねている。かなりの額を送金していたはずのワラポンの実家の中には、家財道具などがほとんど見られず、母親が極貧のままで暮らしていた。ワラポンが送った金はどうしたのかと著者が尋ねると「宝くじを買ってなくなったんだよ」と答えたという。娘が文字どおり命を削って仕送りしていた金は、ギャンブルに消えていたのだ。この言葉の中に貧困というものが抱える闇の深さがうかがえる。

著者は家族のために身を売る娼婦を訪ね、日本を飛び出し、東南アジア各地を巡る。それは明治、大正という時代に娼婦という方法で家族を養った、「からゆきさん」と呼ばれる日本人娼婦の足跡を訪ねる巡礼の旅でもあった。

明治、大正時代に海外で体を売り家族を支えたからゆきさんたちは、家族を支えるとともに貴重な外貨を日本にもたらしてくれる存在でもあった。日露戦争時には多くのからゆきさんが膨大な額の献金を日本政府におこなっている。現在の金額で100万円もの献金をする女性も少なくなかったという。しかし、日露戦争に勝利した日本が大国への道を歩み続ける中で、次第に彼女たちの存在は国家の恥としてとらえられ醜業婦と揶揄され始める。

日本政府も各地に根を張り生きる日本人娼婦を撲滅する政策をとる。貧しい農村部の経済格差の問題を改善することなく断行されたこれらの政策により、娼婦たちの多くが生きるすべを奪われ、東南アジアの闇の中に融けて行った。本著の目次にもあるように「国策に娼婦は殺された」のである。

この現象は今でも変わらない。著者が取材を始めた10年以上前に存在していた国内の売春街の多くが、今現在では壊滅したか風前の灯なのだ。横浜の黄金町、三重県の渡鹿野島、沖縄の真栄原、栄町、吉原、これらの街は繰り返される浄化作戦で廃れてしまった。そして、この浄化作戦の多くに地元の婦人会や女性の人権を叫ぶ人々が加わっていることが何とも皮肉だ。

売春は女性の人権侵害であり、男が彼女たちを搾取していることにも間違いはない。しかし、彼女たちに対しなんらセーフティーネットを設けることなく、一方的な正義感から行われる「浄化」という行為は、彼女たちから生きる術を奪っている。渡日のため数百万円の借金を背負った外国人娼婦が強制送還されたならば、その先にどんな生活が待っているのだろうか。

また、外国人娼婦だけではない。沖縄で子供を養うために身を売る日本人娼婦は「こっちは、パートに出ても時給六百三十円なんです」と語る。とても生活できる水準ではない。また「ここがなくなったら困るんです」とも呟く。売春は彼女にとって子を養う手段なのだ。たとえそれが後ろ指をさされる行為であったとしても。

彼女たちのような存在を抹殺しかねない「浄化」という言葉に著者は言い知れぬ怖さを感じるという。一方的な正義と一点の濁りも許さぬ清潔感は人を不寛容にし、人を殺す。

著者はさらに売春でジャパンドリームを掴んだ女性に取材を行う。覚えている人も多いであろう。アニータだ。
彼女は幼い娘の治療費を稼ぐため娼婦となる決意を胸に渡日。日本で、必死に稼ぎながら、生涯で最も深く愛することになる日本人男性と出会う。運送業をしている男性は経済的にあまり豊かではなく、アニータもスナックで働く。だがそれでも仕送りのお金が足りず、彼に内緒で売春を続けた。そんな時に出会ったのが千田だ。千田はアニータの状況に同情し、横領した公金、1千万円を彼女に贈る。アニータは決めた。お金のために愛を捨てることを。彼女は愛する男と別れ、千田と結婚する道を選んだ。そして家族を養う。

彼女は娼婦であったことも、千田を選んだことも後悔していないという。愛した彼への未練はどこかに残っているようだが、彼女は家族を養い、娘たちに同じ道を歩ませなくてすむだけの経済力を手に入れたのだ。

屈託なく著者の取材を受け入れ、著者に料理まで振る舞う彼女は、娼婦たちが夢見た成功を掴んだ。だが、アニータは苦界で成功を手にしたごく一握りの人間だ。多くの女性は闇社会に搾取され、病気に怯え、表の社会が掲げる正義のために苦しむ。娼婦たちは社会の歪をその華奢な体で受け止めながら必死に生きる名もなき人身御供なのだ。

娼婦たちの人生の哀しみが、私の心の奥底に黒いさざなみを発生させる。この波は国境や時間を超えて、いつまでもこの世界を覆い続けるであろう。答えなど見つからない問題だ。そして、彼女たちは今日も夜の街に立ち続ける。私にできることは、彼女たちを好奇の眼差しで見つめるのをやめることぐらいではないか。言い知れぬ虚脱感が読後に残った。

HONZより転載

『祖父はアーモン・ゲート』虐殺者と家族の葛藤


 映画『シンドラーのリスト』を見た人は覚えているだろう。プワショフの強制収容所でユダヤ人を無慈悲に殺す所長の姿を。彼はシンドラーの友人であり、またユダヤ人を庇おうとしていたシンドラーのライバルとしても描かれている。その男の名は、アーモン・ゲート。身長192センチ、体重120キロの巨漢の男はナチス親衛隊の中でも突出して残虐な男だ。

アーモン・ゲートは各地のゲットー撤去作業で陣頭指揮をとりその異能を発揮し始める。彼が指揮した1943年のクラクフのゲットー撤去作業では二日で約千人が殺され、四千人が追い出された。その多くはアウシュビッツ強制収容所に送られたという。

各地のゲットー撤去作業での功績によりプワショフ強制労働収容所所長へと出世したゲートはこの収容所で死の嵐を巻き起こす。プワショフの生き残りシュテラ・ミュラーマーディによると「気に入らない者がいれば、髪のあたりを鷲づかみにしてその場で撃ち殺しました(後略)」と述べている。ゲートのユダヤ人書記ミーテック・ペンパーは、所長が口述筆記中に突然、窓を開け囚人をライフルで撃ち、何事もなかったように「どこで止めたかな?」と言いながら口述筆記を再開したと証言している。戦後の裁判ではプワショフ強制収容所の件だけでも8000人の死の責任を追及されている。

アフリカ人の父とドイツ人の母を持つ本書の主著者ジェニファー・テーゲは38歳の年に図書館で自らのルーツを知る。図書館でたまたま手にした赤い表紙の本が、マテアス・ケスラー著『それでも私は父を愛さざるをえないのです』というタイトルの本だった。副題に「『シンドラーのリスト』に出てくる強制収容所司令官の娘、モニカ・ゲートの人生」とある。その表紙に写る中年の女性の写真、そしてモニカ・ゲートという名前。それは著者が7歳で養子に出されるまで、彼女を産み育てた母その人であった。アフリカ人の血をひき、イスラエルの大学で学び、ユダヤ人の親友を持つジェニファー・テーゲは、処刑される瞬間までナチズムを信奉し、大虐殺を行った男の孫であったのだ。

彼女は生後4週間で擁護施設に預けられる。当時のドイツではシングルマザーが子供を育てる事は難しかった。不定期にモニカはジェニファーを迎えに来て、共に過ごすこともあったが、母と娘の間には越える事の出来ない心の壁が存在していた。

幼いジェニファーにとっては母と過ごす時間よりも、祖母ルート・イレーネ・ゲートと共に過ごす時間が何よりも楽しみであった。祖母は常に美しく身なりを整え、いつも優しく愛情をこめてジェニファーに接した。しかし、彼女が秘められた家族史を知ったとき、そのことが何よりも大きな問題となる。大好きだった祖母はアーモンの愛人として、妻として彼と彼の思い出に添い続けた女性なのだ。

血を分けた肉親との思い出の中で唯一、温かく楽しい思い出を与えてくれた祖母が虐殺者の愛人であり、共にプアショフで王侯貴族のような生活を送っていたのだ。そしてその生活の基盤は多くのユダヤ人の屍の上に築かれていた。祖母はプワショフで行われていたことを何処まで知り、どれだけ加担していたのか。ジェニファーはその当時、患っていた鬱病と戦いながら、インターネットや書籍、ドキュメンタリー番組などを貪るようにあさり、自らの家族の歴史を追い始める。

多くの資料を調べる中で祖母がロンドンの映画監督ジョン・ブレアのドキュメンタリー映画に出演している事を知る。そのビデオで祖母は「彼は、残酷な殺害者ではなく、ほかの親衛隊の人たちと同じでした。アーモンが数人のユダヤ人を殺害したことは否定しませんが、多数ではありません。(後略)」「彼は、まれに見る美男子で、みんな彼のことが好きでした。(後略)」とアーモンの事を最後まで擁護していた。祖母イレネーはこのインタビューの翌日、1983年1月29日に自らの手で命を絶っている。

イスラエルの歴史家トム・ゼーゲフがナチスの戦犯の親類に行ったインタビューによると、彼らは収容所時代の出来事を故意に過小評価する傾向がある事がわかった。特に未亡人の間でそれは顕著であるという。たとえば、アウシュビッツ強制収容所の副所長カール・フリッチュの未亡人、ファニー・フリッチュは残虐行為が行われていた事実をまったく信じていないという。

ゼーゲフによるとイレーネは特にその傾向が顕著で、彼女はまだ収容所での華麗な生活の思い出に耽っていたという。彼女はこんな言葉を残している「美しい時代だった」「夫のゲートは王で、私は王妃だった。気に入らないわけがないでしょ」

誰が加害者で誰が傍観者なのか。そして、罪は家族の誰までが負うべきなのか。一つの民族を地上から抹殺しようとした行為に、程度の差こそあれ肉親が加担した歴史を持つドイツ人にとって、この問題は今も直視することが困難な問題なのだと思い知らされた。

著者ジェニファーはこの真実と向き合いながら、実母との関係の構築に取り組み。さらに養親との絆の再発見する。そして人生で最も美しい時代である、大学時代を共に過ごしたイスラエルの友人と、この問題を共有しあう。彼女は自らが虐殺者の子孫であることを知り、その事実に苦しみながらも、自らのルーツを知るこで、長年患い続けた鬱病を克服していく。

「自分は何者なのか」という疑問が長い間、彼女の心を蝕み続けた。偶然、知った自らのルーツは決して望ましい物ではなかった。しかし、ルーツを知らない事に比べ、それは対処できる問題だった。たとえそれが望まぬ家族史という根であっても、それすら存在しない虚無という苦しみから、彼女は抜け出す事ができたのだ。

HONZより転載

生まれ変われ、そして人生を掴め。『脳科学は人格を変えられるのか?』


あなたは楽観的な性格だろうか?それとも悲観的な性格だろうか?自覚してはいるのだが、私はかなり悲観的性格である。本書に掲載されている「改訂版楽観性尺度-LOT-R」でも、その数値は悲観的性格を表す9点という結果であった。平均的な人たちは15点前後で、緩やかな楽観主義に分類されるらしい。最大点は24点で最小は0点だ。点数が高いほど楽観的で低いほど悲観的な性格であるらしい。

本書によると、人の楽観や悲観といった性格が、人生に対する幸福感や社交性、問題に対処する場合の粘り強さと社会的成功、また寿命にまで大きな影響を与えているというから、何とも心を冷え込ませる結果だ。

だが、私と同じく悲観的性格を自任する人々に朗報だ。本書には最新の脳科学によって悲観的性格を理解し克服していくヒントが記されている。また、楽観的性格の人も油断してはいけない。人の脳はいとも簡単に楽観的な性格を悲観的性格へと変容させるのだ。

「注意プローブ課題」というテストがある。コンピューターの画面に楽しげな写真と嫌な感じの写真をペアにして左右に写し出す。写真が画面に現れるのは0.5秒ほどだ。その後、写真が消えた場所のどちらかに小さな三角形が現れる。被験者は三角形が現れたら、できるだけ早くボタンを押す。強く惹かれる画像が写し出された方に三角形が現れた場合、人はより素早くボタンを押す事ができるという。

LOT-Rで楽観度が高かった人は、楽しげな写真の方に三角形が現れるとボタンを押すスピードが速くなり、悲観度が高かった人物は不安を誘うような写真に三角形が現れると素早く反応したという。同じ物事を体験しても、この「認知バイアス」によって楽観的な人はポジティブな情報に、悲観的な人はネガティブな情報に意識を振り向けているのだ。

楽観、悲観という感情は人間のもっとも原始的な部分と関係があるらしい。楽観的性格の人は原始的な脳の部分で側坐核という箇所が活発に活動していることが最近の研究で明らかになった。側坐核は快楽や報酬などに強く関わる脳の部分である。悲観的性格の人は恐怖に深く関わる扁桃体が活発に活動している。これらの脳の部位は人間が自然の中で生きる事にとても重要な役目を果たす。側坐核は快楽や欲望への希求を生みだし、扁桃体は自然に潜む危険を素早くキャッチする。

楽観的な人々は快楽という刺激と欲求に過剰に反応し側坐核が活発に活動する。その結果、ニューロンとニューロンがシナプスを通して結びつき、快楽に強く反応する神経網が形成、強化される。ただこれだけでは原始的な欲望でブレーキの備わっていない車と同じだ。これらは前頭前野という司令搭と強い結びつきを持つことで理性的な楽観主義が生まれる。

神経伝達網は盛んに活動するほどその結びつきは強くなる。つまり認知バイアスによってどのような情報を積極的に取り入れるかで私たちの脳細胞ネットワークは側坐核を中心視したネットワークが強化されるか、扁桃体を中心にしたネガティブなネットワークが強化されるかが決まる。

ここで問題なのは、人間が生存競争を生き残る上で恐怖というものが非常に重要な意味を持っていたことだ。このため扁桃体から前頭前野に向かう経路は前頭前野から扁桃体に向かう経路よりずっと数が多いのだという。もともと発達しているネガティブな回路が認知バイアスにより、余計に発達し、理性を司る前頭前野の活動が阻害されてしまうのだ。故に、人は恐怖という感情が生み出す魔物にいとも簡単に飲み込まれてしまう。

上記の「注意プローブ課題」でも意図的に三角形をネガティブな写真の方にのみ出現するよう小細工をすると、LOT-Rで楽観度が高かった人でも瞬く間にネガティブな方向に認知バイアスが振れるという。ただし、これも脳の可逆性のひとつで訓練を積めば逆にネガティブなバイアスと脳の回路をポジティブの物に変える事も不可能ではないようだ。

すると一つの疑問が生じる。このバイアスの最初の一歩は、遺伝により生まれるのか、それとも環境により生まれるのか。著者は人の楽観、悲観に影響を与える遺伝子を探し求め、セロトニン運搬遺伝子に着目する。セロトニンは脳内で様々な働きをするが、中でも重要な働きが気分の安定に関する働きだ。

セロトニン運搬遺伝子は脳内のセロトニンを適正に保つ働きを担う。気分の浮き沈みに非常に大きく関わる遺伝子である。この遺伝子は脳細胞とその周辺から余剰なセロトニンを運搬し再吸収する役目を果たしている。そしてこの遺伝子には3つの型が存在する。LL型はこの働きが活発でSS型は鈍い。SL型は両者の中間だ。

実際にLOT-Rで楽観度が高かった人はLL型の持ち主が多く、悲観度が高い人はSS型の人が多かった。しかし話はここで終わらない。なんとLOT-Rで最も楽観度が高い人々の多くがSS型の保有者だったのだ。著者はこの結果に首をひねる。

SS型はストレスに弱く傷つきやすい性格を生む惰弱な遺伝子とだけ思われていたが、実は非常に環境に影響されやすい性質を生む遺伝子でもあったのだ。この遺伝子を保有する人々がポジティブな経験を多く積むと、LL型を持つ人よりもポジティブな感情を持つことができるのだ。ちなみに本書では言及されていないが、日本人は欧米人比べS型の遺伝子保有率が5割も多いのだそうだ。

本書はここから一気に佳境へと入っていく。それは遺伝子の問題で、いま一番熱い話題であるエピジェネティクスだ。この部分をよりエキサイティングに読むには、HONZのレビュアーにして大阪大学大学院・生命機能研究科及び医学系研究科教授の仲野徹著『エピジェネティクス』を併読することをお勧めする。

遺伝子は確かに我々を規定する。だが、それは必ずしも絶対的な力ではない。私たちは、自らが身を置く環境や科学に依拠した行動と訓練でその弱点を克服することが可能なのだ。

楽観とは自己啓発本のような安易なポジティブ思考礼讃によって生まれる物ではない。真の楽観とは、置かれた環境や行動の訓練により生み出された脳の神経回路とそこから生まれる、どんな苦難にあっても状況を自分の力でコントロールすることができるという、意志と信念によって支えられた、明日への希望なのだ。

HONZより転載

やめられない、止まらない『フードトラップ』その甘い罠


18歳以上のアメリカ国民の33パーセントが、BMI 30以上の肥満体だという。本書によれば、陸軍幹部が公式発表で首都ワシントンの18歳以上の男女が太り過ぎで採用できないと表明。また、カリフォルニア州ロサンゼルスでは、太り過ぎのため帝王切開が困難になり死亡する産婦が増えているという。また痛風患者は全米で800万人にも達するという。

なぜアメリカはかくも肥満大国になってしまったのか。本書はアメリカの加工食品産業の問題点について、原材料である塩、砂糖、脂肪という三点を軸にしながら追及する。

この三つの材料は加工食品になくてはならない物である。なぜなら、製造工程において、苦味、金属味や渋味などの付着がおきてしまうのが通常だが、この三つの材料を加える事により、それらの不純な味を隠すことができるのだ。

糖分への渇望は人間が本能的に持っているものだ。生後間もない赤ちゃんに砂糖水を与えると微笑むという。また、糖分には「至福ポイント」と呼ばれるものがある。至福ポイントとは食べ物や飲み物に糖分を加えた際、最も美味しいと感じる最大点の事だ。この至福ポイントを的確に狙う事で、より依存度の高い商品を開発できる。だが、驚くことに脂肪分には至福ポイントが存在しない。多く投入すればするほど、脳は快楽を得て恍惚感に浸るのだ。

実は糖分や脂肪分を摂取したときに使用される脳の神経回路は麻薬などを摂取したときに使われる神経回路と同じである事が最近になって判明している。

このような消費者の糖分、塩分、脂肪分への渇望を食品会社は熟知している。各社は膨大な予算と大量の科学者を抱え、科学的に人々を依存へと導く商品の開発にまい進しているのだ。例えば、社内で「ビリオネア・ブランド」と呼ばれる29種類のブランド商品を持つネスレはローザンヌ、東京、北京、サンティアゴ、ミズーリ州セントルイスなどの施設に化学者350人を含む700人のスタッフを抱えている。彼らは毎年70件以上の臨床実験を行い、200報の学術論文を発表し、80件もの特許を出願している。

ネスレのビリオネア・ブランのひとつ「ホット・ポケット」と呼ばれる冷凍食品は重さ約230グラムの中に飽和脂肪酸10グラム、ナトリウム1500ミリグラムが入っている。これ一つで成人男性が健康的に暮らすために推奨されている一日分の摂取量の上限近くだ。先ほども書いたが、糖、脂質、塩分は麻薬と非常に似た働きを脳内で示す。これらの成分が大量に含まれた商品は食べても、食べても、また食べたくなるという特徴がある。

食べ過ぎを誘う大量の依存物質が入った商品を販売するネスレは、一方で過食に苦しむ人々向けの医療栄養食品を扱う企業を2007年に買収し、その分野にも進出しているという。人々に過食を促し、太らす商品を販売する一方で、太り過ぎの人々を治療する食品も販売している。

このような話を聞くと、ネスレが悪の帝国のように思えてくる。だが、ネスレは摂取し過ぎると健康を害する原材料の使用量を抑えるために様々な努力をしているのだ。しかし、塩、砂糖、脂肪を減らした商品は目に見えて売り上げが落ちる。たとえ、ネスレが一社が努力しても、売り上げが落ちればスーパーの陳列棚を競合他社が占領していくだけである。企業としてそれは看過できる事態ではない。

本書では様々な食品会社がいかにスーパーの陳列棚の占拠を巡り、激しい競争を繰り返しているかが念密に取材されている。アメリカの子供たちの朝食を巡り、ケロッグなどが激しいシリアル市場の攻防戦を繰り返し、ペプシコとコカ・コーラは「コーラ戦争」を戦う。商品の砂糖含有量は見る見る跳ね上がり、成分の70パーセントが砂糖というシリアルまで販売されている。もはや、それを朝食と呼ぶことができるのであろうか。

著者は加工食品の売り上げにおいてマーケティングがいかに重要かに気づきマーケティングの専門家にも多数インタビューを行っている。コカ・コーラ社はユーザーの新規開発と同じくらい重要なものとして、以前からコーラを愛飲しているヘビーユーザーの重要性にいち早く気づいた企業だ。ヘビーユーザーにもっとたくさんのコーラを飲ませる。そして、思い出に残る楽しい場面にコーラが常に存在するように、という点に多くの力を注ぎながら日夜マーケティング戦略を練っている。

食品業界の一部の人々も、高まる健康志向と自己の良心の呵責の末に、塩分、糖分、脂肪分の減少を模索する。しかし、彼ら良心派は常に亜流に止まる。熾烈な競争の中で、いかに利益を上げるかという重圧は業界の人々に常に圧し掛かる。著者の目は次第に彼らの出資者が集まるウォール街へと向いていく。

本書は食品業界が流通させる、加工食品がいかに健康を害するかを論じた本である。一方で企業の歴史やマーケティング戦略といったビジネスに関する面を、内部資料の分析や業界人へのインタビューで非常に丹念に追っている。そのような視点で読めば、優れたビジネス書として読むこともできる。また、自由主義市場が求める利益が加工食品メーカーの良心を圧殺しているという視点を鋭く指摘している点も見逃せないと思う。

加工食品メーカーは出資者の求める成果を出すために科学者、心理学者、技師、マーケティングの専門家、デザイナーなどがあらゆる能力を駆使し、念密に計算された商品を「設計」しているのだ。

これは肥満という現代の社会問題が個人の意思のみで解決しうるものでないことを如実に表している。我々はまさに味蕾を刺激する地雷に囲まれた日常を生きている。本書を読むことで、真実と情報を手に入れ、賢く懸命に振る舞える消費者になることが、自己と家族の健康を守る唯一の武器になるのではないか。そう思わせる一冊だ。

HONZより転載

『本は死なない』キンドル開発者、読書についてかく語りけり!


日本ではいまひとつ普及していない印象が拭えない電子書籍だが、アメリカでは事情が異なるようだ。本書の記載によると、アメリカの出版業界の市場調査を専門とした機関の報告で、2012年までに成人の24・5パーセントが日常的に電子書籍を読んでいるという調査結果が出ているそうだ。

社会学者エヴェレット・ロジャーズの著書『イノベーションの普及学』によると、革新的な技術が消費者に普及するまでには5つの段階をふむという。消費者全体の2・5パーセントを「革新者」と呼び、最も早い段階で新しい技術に反応し購入する層。次が「初期導入者」で13・5パーセント。これに次ぐのが34パーセントを占める層で「初期多数派」といい、ここまで消費者のほぼ50パーセントを占める。残りの50パーセントは「後期多数派」が34パーセント、「最遅者」が16パーセントとなる。普及が初期多数派に達したときが、新技術が最も高い収益を上げる時期とも言われている。現段階においてアメリカでは、電子書籍は初期多数派に浸透しつつある。

本書はそんな電子書籍を普及させた、アマゾン社のキンドル開発プロダクト・マネージャーが本の歴史と未来、そしてその文化的意義を語る一冊である。

ところで電子書籍と紙の本ではどこが最も違うのであろう。やはり一番に思いつくのが、紙の本では読書という行為が個人的なものであり、閉じた行為だという事だ。本に書かれた情報を確認するためには、本の最後に書かれている参考文献などを読後、個別に探さねばならないし、小説などの文章で気になった事や疑問、自分の解釈などを誰かと共有することは稀だ。

だが、電子書籍は読書を開けた行為に変える。著者はやがて全ての本が一冊の本になるのではないかと予想する。全ての本が一冊の本に包括される、読書版フェイスブックのようなシステムが生まれるというのだ。あらゆる本が電子化され、全ての本がハイパーリンクによって繋がった世界だ。読者は一冊の本を読む中で気になる事柄に関する事を、そこに貼られた参考文献のリンクを踏むことで、瞬時にその理論の基になる本へと飛ぶことができる。様々な本を行きつ戻りつしながら本を読むことができるようになる。

また、その事柄について書かれた他の読者のコメントや議論を共有することで、本の内容をより深く理解することができるようになる。興味深いコメントを残した人物の履歴を追う事でユニークな読書遍歴者や、優れた本のキュレーターに出会うことも可能だ。むろん、現状では出版社の問題や著作権の問題などで不可能だ。しかし、やがては本をそのようなソーシャルメディア的なシステムにするべきだと著者は説く。

現在、ネットに渦巻く情報は玉石混交だ。確かな事実や優れた議論に触れるためには本に勝るものはない。だが現状では、一冊一冊の本にアクセスするために、あまりにも多くのプロセスが必要だ。このため膨大な知の宝庫である書物に我々は効果的にアクセスできなでいる。あまり注目されないが素晴らしい本も存在する。

もしこのような膨大な本の海を制約なく自由に行き来できるようになれば、我々の知的活動は新たな次元に突入するのではないだろうか。著者は有用な情報を多くの垣根を越えて一元的にアクセスできるようにするために、やがてグーグルが大きな役割を担うのではないかと期待感を込めて述べている。

作家と読者の関係も変わる。作家は読者がどのような部分に関心を寄せているかという事を、コメントや読書歴のデータで分析し、随時、著作に改変を加えることが可能だ。電子書籍においては文章は常に変化するというこだ。読書という行為が可変的な体験になる。読者が読書という行為を通して、作品に大きな影響を及ぼす可能性が出てくるのだ。

読書とは、その本の著者と会話を交わす事とだと言われることがあるが、これからは著者もまた、データを通して読者と会話することが求められるのかもしれない。また、すでに読者の読書履歴などのデータの一部はアマゾンやアップルに収集されているという。こうなると、作品に関する出版社、販売元、作家の力関係に大きな変化が訪れる事は避けられないだろう。

かつて、古代には3つの大きな図書館があった。アレクサンドリア、ペルガモン、ハッラーンの図書館だ。これらの図書館に収められていた膨大な蔵書は度重なる戦禍などで多くの物が消失している。実は電子書籍の状況も古代と似た状態だという。なぜなら、電子書籍のデータはその大部分がアマゾン、グーグル、アップルのクラウドに保管されているからだ。災害、戦争、テロ、ウイルス、倒産などでこれらのデータが消失してしまう危険が常に付きまとう。このようなリスクも真剣に考えていく必要もあるかもしれない。

その他にも、紙の本に宿る人間的な温かみの欠如など、多くの問題点を挙げつつも、著者は電子書籍の未来に多くの希望を感じているようだ。なんといっても、本書の冒頭部に書かれている「読書はテクノロジーの進歩と共にある文化だ」という著者の言葉が読了後、心に響く。電子書籍は間違いなくグーテンベルク以来の読書革命だ。グーテンベルクの活版印刷技術は宗教革命に大きな影響を及ぼした。今度の読書革命は私たちにどのような影響を与えるのであろうか。

ただ、この革命の重要なプレーヤーが、子供のころから本が大好きで紙の本をこよなく愛する男だと知った今、根が保守的な私の心の中にあった電子書籍という大きな変化に対する不安は見事なまでに払拭された。

HONZより転載
プロフィール

後白河

Author:後白河
1978年愛知県生まれ。10代の頃は中学3年で登校拒否、高校中退、暴走族の構成員とドロップアウトの連続。現在は自動車部品工場に勤務。気がつくとなぜかHONZのメンバーに。趣味は読書、日本刀収集、骨董品収集、HIPHOP

成毛眞氏が運営するHONZというオススメ本紹介サイトでレビューを書いています。
http://honz.jp/



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