ビンラディンを殺した男たち。『アメリカ最強の特殊戦闘部隊が「国家の敵」を倒すまで』


DEVGRU(デブグル)という組織が存在する。一般的にはSEALチーム6と呼ばれることが多い。この組織の正式名称は、United Naval Special Warfare Development Groupだ。アメリカ海軍の特殊部隊「Navey SEALs」という精鋭部隊の中から、さらにトップクラスの男たちを選抜し、SEALsよりさらに高度な戦闘技術と厳しい戦闘訓練を日々積んでいる、対テロ戦の専門部隊だ。まさに精鋭中の精鋭といえる組織というわけだ。本著の著者、マーク・オーウェンは元デブグルの下士官だ。オサマ・ビンラディン強襲作戦「ネプチューン・スピア」ではチームリーダーを務めている。そしてその戦いはやがてオサマ・ビンラディン暗殺へと収斂されていくことになる。

本書は個人の回想録であり戦記でもある。また普段は窺い知ることのできない特殊部隊の内側を知ることのできる良質なノンフィクションでもある。著者が厳しい訓練を積んでデブグルへと駆け上がっていく様は臨場感あふれ、テロリストの拠点を夜間、襲撃するシーンでは手に汗握る戦闘シーンが描かれている。暗視ゴーグルを身に着け、待ち伏せを警戒しながら敵地へと侵入していく場面は圧巻だ。

あまり知ることのできない、SEALやデブグルの内幕を垣間見ることができるのも興味深い。例えば、SEALではスコープや固定刃のナイフ、防弾プレートといった装備品が1人につき1つずつしか支給されない。

このため、様々な作戦用途に分けて準備されている装備バックの、どれにこれらの装備が入っているかわからなくなり、派遣前に大慌てでバックをひっかきまわす、ということがよくあるのだそうだ。また身銭を切って必要な物を購入することもあるという。しかし、デブグルでは本人が申請しただけ、装備品が支給されるという。この一点だけでもデブグルという組織がいかにスペシャルかということがわかる。

だが、それ以上に目を引くのが、彼の経験がテロとの戦いでの戦術的進化の変遷そのものだという点だ。テロリストとアメリカ軍が、それぞれの生き残りをかけて最適化を試行する姿が描かれているのだ。

特殊戦闘部隊はテロリストや武装グループのアジトを夜間に急襲するのが任務だ。イラク戦争当初では、多目的装甲車で目標に乗り付ける地上部隊と、リトルバードという小型ヘリで目的地に降りる上空班とに分かれて、敵を挟み撃ちにする電撃戦が行われていた。しかし、次第にその作戦は通用しなくなる。著者が陸軍の特殊部隊デルタフォースと共同任務をこなしていた際に、ある武装グループはアメリカ軍の急襲に備え、アジトの二階部分を要塞化していた。知らずに踏み込んだ地上部隊は敵の反撃にあい人的損害を出してしまう。

著者らもヘリから急襲する予定だったのだが、偶然にもヘリの搭乗員が目標を誤り違う建物に降下してしまった。だが、そのことが著者の命を救ったという。巧妙に陣地化された狭い建物内に上階から突入すれば、戦闘のスペシャリストでも無傷で生還できたとは考えにくい。
この時は支援任務で急襲地点外周を警備していた通常部隊の装甲車に援護を要請し、25ミリ機関砲で建物をハチの巣にし、その後に熱爆風爆弾で建物ごと吹き飛ばすという大事にいたってしまった。

このためアメリカ軍特殊部隊は戦術を変更し目標の数キロ手前でヘリから降り、そこからは徒歩で敵地に隠密裏に侵入する作戦に切り替える。この方が奇襲の要素が増し、寝込みを襲うことができるからだ。

しかし、敵はさらなる適応をとげる。アメリカ軍は交戦規定により抵抗しないものを攻撃することを禁じられていた。敵はその点を巧妙についてきたのだ。彼らは襲撃されると素早く武器を隠し、無抵抗で拘束されるようになる。そして数日後には証拠不十分のために釈放され、またテロ攻撃を繰り返すのだ。苛立ちを募らせた著者は、無抵抗で拘束された武装組織のメンバーを撃ち殺したいという衝動に駆られたと、自身の気持ちを正直に吐露している。

無論、成功例もある。著者が参加した模範的な急襲作戦は本書の見せ場のひとつだ。念密な準備と状況によって、個々の隊員が状況の変化に見事なまでに対応するその姿は、以前に紹介した野中郁次郎著『史上最大の決断』の中で述べられていた、フラクタル型組織と自律分散型のアメリカ軍の長所が今も脈々と息づいていることを感じさせる。

映画『ゼロ・ダーク・サーティ』でビンラディン襲撃の場面が描かれているため、凡その流れを知っている人も多いと思う。上記の内容を読んでもらえばわかるが、ビンラディン邸急襲では、あまり得策ではないヘリによる襲撃が用いられている。このような作戦にいたった経緯や、作戦開始までに繰り広げられる、お偉方の思惑や官僚の横槍なども特殊部隊の視点で描かれている。

厳しい数週間の訓練期間。そして死と隣り合わせの戦地での任務。その後やっと訪れる1週間の休暇。任務のために家族や個人的な問題は常に後回しにされる。結果、隊員の離婚率は高い。しかし、本書を読んで彼らの生き方に魅力を感じてしまう。それはなぜだろうか?

おそらく彼らが持っている仕事への強烈な誇りと、常に技術の向上を目指し完璧を目標とするプロフェッショナルな姿勢だ。しかも、彼らは名声を求めない。将校たちはビンラディン暗殺という任務にありつき、その任務を成功させれば将軍への道が約束される。作戦を許可したオバマ大統領は政治的な名声を手にするだろう。しかし、現場で戦う著者ら下士官たちはそんなものを求めない。著者は言う「おれたちの報酬はこの仕事そのものだ。それ以外に報酬はない」と。

妥協することなく高い技術を追い求め、黙々と任務をこなしながらも、名声も名誉も求めない。彼らは間違いなく真の職人なのだ。確かにその任務は人殺しである。当然、批判もあるだろう。それでも、自分の信じた道を邁進する彼らの姿を、本書を通じて見たとき「かっこいい男たちだ」という思いが胸に湧き出てくる。この思いだけは止められない。
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『日本-喪失と再起の物語』今いちどこの国を見つめる





これからも日は沈み続けるのだろうか。それとも、いったん没しかけた太陽は自らを大きく変革し再び昇るのだろうか。あるいは成熟国家として、ある程度の富を保ちながら退屈ではあるが緩やかで穏やかな社会を、長期間にわたり維持し続けるのだろうか。その答えは誰にもわからない。なぜなら歴史とは常に一つの方向にのみ流れ続ける川ではないからだ。それに、私たちがどのような社会を建設していきたいのかというコンセンサスが今の日本社会の間にあるとも思えない。

ただ、今の日本が大きな歴史の分岐点に立っているという認識は広く共有されているのではないだろうか。そんな時代の空気感こそが、昨今の「日本は素晴らしい国」といった内容のテレビ番組の氾濫の原因でもあるのだろう。本書の著者も間違いなく日本は素晴らしい国だと思っている。しかし、それは日本人が好み、日本贔屓の外国人も同意するような日本人特殊論に依拠してはいない。

それ故に、日本人にとっては耳に痛い話も書かれている。ネット右翼と呼ばれる人たちが読んだら目くじらを立てて怒るかもしれない。太平洋戦争の原因に対する記述には反論もあろう。また従軍慰安婦の強制連行などの記述もある。だが従軍慰安婦の問題については、朝日新聞が誤報を認めてから著者はこの問題にたいして慎重な姿勢をみせているという。欧米の知識人の間でいかに朝日新聞が発した誤報が浸透してしまっているかということをあらためて思い知らされる。

そのような問題がありつつも、本書は日本人がどのような近代を歩み、また、日本社会にどのような価値観の争点があるのかを時に手厳しく、時に日本への愛情を込めながら解説する。本書はこれまでのステレオタイプとは違う視点の日本論を海外の人々に届ける事を目的にした本だ。だが、何より、私たち日本人が日本社会というものを見つめ直すとき、大きなひとつの視点を与えてくれる。特に日本が明治以降、脱亜入欧を目指し、脱亜には成功したものの入欧に失敗し、現在にいたるもその立場が宙ぶらりんのままという指摘にはハッとさせられる。

日本は島国である。日本人はことさらこのことを誇張する。確かに大陸から200キロという距離は、日本人が同じ島国としてときに強い共感をおぼえる島国イギリスよりも大陸から離れている。イギリスはしっかりと大陸の文化の中に組み込まれているとイギリス人である著者はいう。日本においてはこの微妙な距離感が日本人に及ぼした物理的、また心理的な影響がこの国の歴史と文化に様々な影響を与えていると分析する。日本人の認識がこの国の歴史と文化に影響を与えたとはいえ、このことを私たちは強調しすぎるきらいがある。著者はその点を鋭く指摘している。

『国家の品格』の著者である藤原正彦がインタビューで、東京医科歯科大学教授の角田忠信の研究結果(日本人の脳はほとんど全ての外国人とことなった働きをするという説)を例にだし、日本人は特別に情緒深く自然を愛する能力が高いという説を披露したときには、本著の著者、デイヴィッド・ピリングはこう切り返す。自然を愛する日本人がことさら雨を嫌がるのはなぜか、イギリス人は雨にぬれることをあまり厭わない、と。藤原の答えは「イギリスの雨と日本の雨はまったく違いますからね」だった。

日本の桜を深く愛するが、それは日本人の脳が脳機能マッピングで特別な働きを見せるからでも、日本人のみが持つ固有の感性でもない。桜はあくまでも日本人にとってある種の文化的なよりどころであり、親から子へと受け継がれ、詩人や哲学者によって解説されてきたものだと反論する。それは夏の美しいさかりに、村の共有の広場でクリケットとビールの苦みを特別な物として楽しむイギリス人の感性となんら変わるものではないのだ。

著者はさらに日本的なるものについて吟味する。そしてその多くは比較的に新しいものであると結論づけている。今のような形の神道と天皇のありかたや価値観も19世紀に起きた明治維新後に作られたものであるという。神道は元来、自然や自然現象を崇拝するアニミズムにもとづく民間信仰であったが、明治政府が神道を国家神道へと引き上げる過程で、複数存在した宗派が天皇の名のもとに統制されるようになる。また太平洋戦争後は国家神道と天皇崇拝に代わり、日本人は新たな神話を見出す。

それはGNP信仰と日本的経済成長モデルと企業文化だ。しかし、これらにも日本的なるものは本来存在しないという。政府主導の統制経済モデルは戦後、焼け野原の中で、戦後経済計画案の立役者である大来佐武朗らが、戦中の戦時経済を平時にも応用するという決断をしたことに起因する。私たちが日本的だと思い込んでいるものの多くがここ100年の間に形づくられたものなのだ。

では日本的なるものとはなんなのだろう。あるいはそんなもの存在しないのだろうか。本書にその答えはない。しかし、日本的なものと思い込んでいたものが、必ずしもそうではないと理解したとき、私たちは日本とはなんなのか?という問題をあらためて真剣に問う事が可能になるのではないだろうか。

バブル崩壊後、坂を転げるように下り続ける日本経済をみて、国内外から発せられる日本衰退論にも著者は懐疑的である。様々な企業の業績や事細かな数字を示しながら、日本がなお国際的に大きな役割を担うプレイヤーである事を丹念に説明する。しかし、その一方で、日本の成長神話が終わりを迎え、かつて日本人が信じてきた、すべての国民が中流階級でいられるという認識は日本国内でも急速に変わりつつあることも記述されている。

この点に関しては、作家の村上春樹や『絶望の国の幸福な若者たち』の著者である古市憲寿といった人々に丹念なインタビューを重ねることにより、無限級数的に発展した経済と、社会が決めたルールに従うことで確実に豊かさを手にできる「約束された道」の終焉と、そこから新たな道を見つけようとあがく日本社会をリアルな形で掘り出すことに成功している。

本書は原註を除いて610ページにも及ぶ作品だ。論じられているものも、政治、経済、社会、文化、外交と多岐にわたる。また多くの日本人の個人的なストーリーを織り交ぜ、様々な分野でその分野のキーパーソンの言葉を巧みに記述することにより、複雑で膨大な内容の日本論に血の通った温かみを持たせることに成功している。

日本人は自らが本質と考えるものを守るため、ときに大胆にその社会を変容させてきたと著者は言う。今の日本社会はまさに変化の過渡期にある。私たちは何者で、どのような社会を築いていきたいのかという問いを多くの人々が問い続けているのではないか。本書はその問いを考えるための原点に私たちをいまいちど立たせてくれる。そんな作品ではないだろうか。

『慟哭の海峡』大正生まれの男たち


台湾南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬からフィリピン領バタン(バシー)諸島との間にある海峡をバシー海峡という。黒潮が流れるこの海峡は、かつて輸送船の墓場と呼ばれていた。太平洋戦争後半には、この海峡にアメリカ軍の潜水艦が多数配備されており、南方の戦線に送られる日本軍の輸送船団に忍び寄り、その牙をむいた。この海峡で10万人以上の日本人が犠牲になったという。このことをいったいどれだけの日本人が知っているのだろうか。今もこの海峡の底には、祖国に帰る事がかなわなかった多くの日本人の無念の思いが、その御霊と共に眠っている。

本書はこのバシー海峡を彷徨いながら、九死に一生を得た元独立歩兵第十三連隊、第二大隊の通信兵、中嶋秀次と、この海峡で戦死した柳瀬千尋、そしてその兄で『アンパンマン』の作者、やなせたかしを中心に、その生と死、そして戦後を綴ったノンフィクションだ。

1944(昭和19)年8月19日午前4時50分。フィリピン・ルソン島のマニラを目指して、バシー海峡を航行していた「ヒ七一船団」の玉津丸は米軍の魚雷をくらう。通信員の部屋は通信業務が行いやすいように、甲板に近い場所にとられていた。このことが幸いした。暗闇に包まれ、かつ傾く船内を移動するのは至難の業だ。船倉深くの部屋をあてがわれていれば、甲板にたどりつく前に、流れ込んできた海水により溺死していたであろう。

甲板にでた途端に中嶋は大波にさらわれ、海中に引きずりこまれる。玉津丸が魚雷攻撃を受けたとき、海は時化ていたのだ。沈みゆく船が起こす流れに引き込まれ、沈んでいく中嶋は苦しみの中で死を覚悟した。しかし、盥船のようなものが偶然にも手に当たり、それを掴む。当時の艦船には船が撃沈されたときに備え、多くの浮遊物を積んでいたという。

海面を漂った彼は遠くに浮かぶ筏の群れと、その上で軍刀を背負い部下に指示をだす中嶋の上官(といっても当時23歳だった中嶋より若い)小宮山中尉を見つける。体力がつきかけていた中嶋だったが、〝中尉殿が生きている〟と思うと不思議なほど力が湧いたという。

太いロープで繋がれた筏の群れに多くの将兵が這いあがっていた。しかし、三角波が襲ってくるたびに確実にひとり、またひとりと波間に消えていく。同じ部隊の後輩も姿を消し、軍刀を背負いテキパキと指揮を執っていた小宮山中尉もいつの間にか消えていた。最盛期で50人を超えていた人数も、大きなうねりが襲ってくるたびに確実に少なくなっていく。

よく20日には救助船が駆けつけるも、中嶋たちの筏にまで救助の番はまわってこなかった。救助船も潜水艦に攻撃される危険を冒しての救助活動である。無理は出来ないのだ。しかし、嵐の夜を恐怖と不安にさいなまれながら生き残り、あと少しで救助されると思っていた矢先に置き去りにされた彼らの思いはどんなものであったか。

待ってよと 血を吐くこえで 呼ばいつつ 水掻く兵ら 涙ぬぐえず
もう見えぬ 船よばいつつ 筏こぐ 狂いしごとく 竹筏こぐ



大学で文学を学んでいた中嶋はこの時のことを回想し、このような歌を詠んでいる。希望は潰えた。ここから多くの兵たちの絶望的な漂流生活が始まる。容赦なく照りつける8月の太陽は、遮るもののない筏の上の男たちの皮膚を焼き、火傷を負わせる。暑さは即、乾きへとつながり、我慢できず彼らは海水を飲み始める。兵たちは茶色い尿をするようになる。

彼らは次々と狂い死ぬ。ある下士官は喋る気力も失せ、目だけをぎょろぎょろさせていたのだが、突然、意味不明な言葉を発し続けた後にこと切れた。またある兵は、中嶋が制しする手を振りほどき、何かを呟きながら海に入り消えていった。幻想の中で「湯をくれたご婦人方」を追いかけ夜の海に飛び込み消えていく者。中島を妻と思い込み、その手を握りながら清水を求めて死んだ男。

中嶋自身も何度も戦友が夢枕に立ち、彼を呼ぶ夢を見る。そして戦友について行こうとするたびに、海へと転げ落ち我に返るという経験をする。狂い死ぬ者を見送る人の気持ちとはどんなものなのか。想像すらできない。
最後に生き残った朝鮮人軍属と中嶋は、死んだ兵の肉を食べるかで意見が分かれる。食べようという朝鮮人軍属の言葉を「日本人」だからと断るや中嶋。その直後、意識を失った中嶋が目覚めたとき、死体は消えていた。食べたかと聞く中嶋に、朝鮮人軍属は、肝を取りだし食べる前に洗おうとしたら死体が波にさらわれた、という。
その言葉を耳にした中嶋は「なんだ!残っているものがあれば、俺にもよこせよ」とつぶやいた。自分でも思いもかけない言葉だった。戦争が生み出した極限状態は本人が知りたくもない、生物が持つ一種の生臭さを我々に突きつけるのだろう。

この朝鮮人軍属も息絶えた。自身も立つことすらできなくなっていた中嶋だが必至で彼を介抱した。この朝鮮人は間違いなく生死を共にした無二の戦友なのだ。彼はなんども「中嶋さん、ありがとう」とつぶやきながら死んでいく。中嶋は動かなくなった彼の横で四つん這いになり、なぜか軍人勅諭を叫んでいた。涙を流しながら。その行為が唯一、彼を現世に押しとどめる行為であるかのように。中嶋は漂流12日目に救助される。

「ヒ七一船団」は一昼夜の内に数隻の輸送船を失い、一万人以上の犠牲者をだしていた。この経験が彼のその後の人生を決める。彼は旅行会社を経営する傍ら、バシー海峡の戦死者遺族の慰霊旅行を企画し、私財を投じて台湾最南端の猫鼻頭岬に慰霊のための寺を建てる。戦後の彼は異常なまでの執念で慰霊の旅路を行くことになる。

彼の魂の一部は、あの時に留まったままなのだろう。いや、彼に限らず、戦争というものを生き残った者の心は、常に戦場という地獄に囚われる。死を迎えるまで、そこから抜け出すことができないのではないか。それは本書のもうひとりの主人公、柳瀬千尋が将校として勤務していた駆逐艦「呉竹」の生存者の話からも伺える。

ところで、太平洋戦争とは大正生まれの男たちの戦争でもある。本書によると大正生まれの男子の総数1348万人のうち200万人以上が戦死したという。大正生まれの男の7人にひとりが戦死したのだ。ひとつの世代がこれだけの規模の数で失われたのである。この戦争が日本社会を変容させたことは間違いないだろう。

今まで語られることのなかった大正の男たちの悲劇的な死にざまと、生き残った者たちの声を歴史という堆積物に埋もれさせてはいけないだろう。多くの人が、本書を開き彼らの慟哭に耳を傾けて欲しい、そう思わずにはいられない。

HONZより転載

『壊血病』もつれた糸


18世紀、船の大型化と航海技術の進歩により、頻繁に寄港することなく航海が可能なになった。こうしたことにより猖獗を極めた病がある。「壊血病」だ。壊血病とはビタミンC(アスコルビン酸)の欠乏により起こる病だ。壊血病になると身体の結合組織の細胞が変性を起こし、歯茎の腫れと出血、歯がぐらつく、口臭、無気力、倦怠感、古い傷口が開く、接骨した骨が外れる、などの症状があらわれ、放っておけば苦しみながら死にいたる。

当時の船乗りの食事は、腐った肉、悪臭を放つチーズ、カビが生え、虫のわいた乾パンなどといった悲惨な内容で、高カロリーではあったが、新鮮な食糧、とくに野菜とは縁がなかった。船上で口にできる食糧にはアスコルビン酸がほとんど含まれていない。ちなみに健康体の人の体内には900から1200ミリグラムのアスコルビン酸が存在し、一日に必要なアスコルビン酸の量は50ミリグラム、体内のアスコルビン酸が500ミリグラムを切ると壊血病の症状があらわれるという。

この病がいかに深刻であったかは、1763年の『アニュアル・レジスター(政治・文芸年報)』に記された、フランスとの7年戦争におけるイギリス軍水兵の死傷者数を見ればわかる。この戦争で召集された、18万4899人のうち13万3708人が病死、その大半は壊血病による死であったという。戦死者はなんと1512人であったという。膨大な数の犠牲は砲弾ではなく、壊血病によってもたらされたのだ。

新大陸の発見とその富を巡り激しく対立していた当時のヨーロッパにおいて、このような膨大な人的被害をもたらす壊血病は、国家の運命も左右しかねない重大な問題であった。しかし、その一方で階級社会が深く根づく当時において、水夫や水兵といった下層階級出身者の命というものは、非常に安くみられていた。

こうした状況の中、一人の男が海軍の船医見習いとして船に乗り込むことになる。若き日のジェームス・リンドだ。当時、外科医は内科医と比べ、身分の低い人がなる職業であったという。若きリンドは身分の低い外科医見習いとして、社会に出る。厳しい見習い期間を経てリンドは船医に昇格した。そして1747年にソールズベリー号において画期的な実験を行う。

艦隊の中で重症の壊血病患者12人を同じ部屋に集め、同一の食事を同じ量与え、条件を整えた後に、患者を2人ずつ6組に分け、六種類の異なった壊血病薬や食事を与えた。詳細は本書に譲るが、もっとも効果があったのはレモンやオレンジを与えられたグループであった。著者によれば、これは臨床栄養学的に管理された医学史上で初の実験だという。これにより、壊血病が柑橘類に含まれる何だかの栄養分が欠乏して起きる病であるということが判明する。

しかし、リンドのこうした業績は世間にあまり顧みられることは無かった。リンドはその集大成として著した『壊血病論集』で予防医学の重要性を強く説くも、当時の海軍にはそのような考えが欠如していた。また、上流階級を専門に診る医師で、アンソニー・アディントンという人物が激しくリンドの説に反対する。リンドはエディンバラ大学時代からの知人である貴族のチャールズ・ビセットとも折り合いが悪く、彼はリンドの説を攻撃する小冊子を発表する。ビセットは国王ジョージ三世の専門医、海軍軍医長、そして後に王立協会会長に就任する医師、ジョン・プリングルとも親しく、様々な政治的な圧力があったことが窺える。

またリンド自身も晩年には実証的に物事にアプローチする姿勢を失っていた。彼は柑橘類の汁を煮込み、濃縮させることにより長期保存を可能にした「ロブ」というジュースを壊血病薬として開発していた。だが厳密な実験でロブの効能を確かめた形跡がないのだ。アスコルビン酸は不安定な物質で熱に弱く、さらに長期保存することで破壊される。リンドが若き頃と同じような情熱を持ち、厳密な実験をしていれば、すぐロブの効能の薄さに気づいたはずだ。しかし、彼はそうしなかった。このことが、リンドの説に大きな影を落としていた。

リンドの説を否定した人々が唱えた壊血病に関する腐敗、発酵説は今から見ると荒唐無稽な説である。プリングルはヘルマン・ブールハーフェの「腐敗病」説を基に、腐敗を遅らせ妨げる物質が壊血病の進行を阻止すると考えた。それをたたき台にデービット・マクブライトが「固定空気説」という理論を提唱する。身体の腐敗から発生するガス(固定空気)が体の結合剤になると推論し、発酵しやすい食物を摂取し固定空気を補充すれば壊血病が治癒すると主張した。この理論を基に開発したのが麦芽を発酵させて作られた「麦芽汁」だ。

この麦芽汁は王立海軍病院とリンドが医院長を務めるハスラー病院で試された。結果、患者が治癒することなく次々と死亡したため、壊血病患者が麦芽汁を飲むことを拒否する事態にいたる。しかし、王立協会会長のプリングルが麦芽汁を強く擁護する。さらに、海軍も高価な柑橘類を壊血病の治療薬とすることをしぶり、麦芽汁が壊血病薬として浸透していく。

流行の学説とそれを信奉する権威ある人々、そして海軍の官僚主義的な高官たちが、その社会的身分を駆使し、自らの威信を守るため開きかけた真実の扉を再び閉ざしてしまった。

リンドは最晩年に壊血病の治療に関する研究を諦めてしまう。この病が克服されるまでには、クック船長の驚異的な航海と、リンドとクックの成果を丹念に研究し、自身の高い身分を駆使してプリングルたちに戦いを挑んだ医師、ギルバート・ブレーン登場を待たねばならない。ブレーンが壊血病を克服したとき、リンドがソールズベリー号で実験を行ってから48年もの歳月が流れていた。この間にも多くの船乗りの命が壊血病によって奪われ続けた。多くの水兵、水夫の苦難に満ちた短い人生は、壊血病という苦痛によって幕が下ろされた。

プリングルたちが混乱させた、壊血病の予防と治療という難題をブレーンが解きほぐした結果、イギリスはナポレオンとの戦争に際に、海軍による大陸封鎖という戦略的に大きな意味を持つ作戦が可能になった。その結果の手にした勝利により、イギリスは超大国としての道を歩む。

人類は常に新天地を求めて旅を続けてきた。生存を賭け、欲望に駆られ、純粋な好奇心を胸にして。現代の繁栄はこのような先人の旅の上に築かれている。だが、その輝かしい栄光の陰で、多くの名もない人々が命を落としたことを忘れてならないだろう。前進とは常にリスクを伴うものだ。そして、時に社会通念や常識、また為政者たちの惰性が犠牲を拡大させてしまうことがある。現代社会とて、このような事態と無縁ではないはずだ。

HONZより転載

車を買い替えた!


愛車のステージアm35 。日産が誇るV6気筒VQエンジン
の奏でるエンジン音が魅力の名車だが、すでに13年落ち、走行距離も11万キロオーバーとなり、「やれ感」がだいぶひどくなってきた。そのため機関良好とはいえ、そろそろ買い替えたいという気持ちが高まってきたのである。

以前からドイツ車、特にBMWに憧れていたのでBMWに狙いを定め車を探し始めた。お手頃な値段を求めていたので新車及び現行はターゲットから外し、維持費も勘案し中古の一型落ちの3シリーズ(E90)の後期を中心によい物件はないものかとカーセンサーで検索をかけまくることに。

しかし、BMW以外にもメルセデス・ベンツのCクラスとアウディA4も副次的な候補としてウォッチしていたところ、近所の車屋でメルセデス・ベンツのCクラスの一型落ち(w204)が入荷しているのを見つけた。冷やかしついでに見に行ったところ、これが予想以上にかっこよいではないか!BMWの320iと実物を見比べたところ、明らかにベンツw204の方が面構えがいいのだ。

そのお店の物件は予算を大幅にオーバーしていたため買うことはなかったのだが、急遽、本格的にメルセデス・ベンツのCクラスw204型が私の心のなかで最有力候補に浮上してきた。すると自宅けら45分ほどの中古輸入車専門店に予算内のCクラスがあるではないか!年式は最初の店の物より2年ほど落ちるが、走行距離が1,000キロほど少ない。さらに60万円のオプション、AMGスポーツパッケージが付いている!早速、来店し実物を見に!

結論から言うと、見に行ったその日に購入してしまった。実は店の営業さんの対応に気になる点が多々あり冷静に考えればメンテナンスを含めこの人と長い付き合いが出来るか?と言う点をしっかり考えるべきだったのだが、車の魅力にすっかり逆上せてしまったのだ。ま、問題点はあるものの車自体には大満足であることは確かだ。今回の車の買い替えは熟慮よりも衝動が優ったわけだが今のところは満足しているしだい。

『「知」の読書術』教養人が思想の構築を怠れば、反知性主義が物語を語る


世界は混迷を深めている。中東で起こっている血なまぐさい事件の数々は言うに及ばず、東ヨーロッパではウクライナ危機が加速し、アジアでは台頭する中国が帝国主義的な政策の基で、世界秩序に挑戦している。日本もまた、中国の覇権主義の挑戦を受ける形で、自国の安全保障の見直しを迫られている。そんな中、各国の国民の間で再び強烈な民族主義と排外的な感情がその鎌首をもたげ始めている。我々は何を基軸にしてこの時代を読み解けばいいのか。

本著の著者、佐藤優はその答えを教養に裏打ちされた知恵に求める。我々に今求められているのは、真の教養であるという。そして真の教養とは時間という風雪を耐え抜き、なお読み継がれてきた古典の中に存在する。本著は佐藤優が現代社会を読み解くために必要と思われる古典を、関連する現代の書籍なども交えつつ紹介し、それをどのように読みこなすのかを指南するブックガイドだ。

では、我々が生きる現代とはどんな時代なのであろうか。著者はそれをイギリスの歴史学者エリック・ホブズボームの「長い19世紀」と「短い20世紀」という概念の中に求める。「長い19世紀」とはフランス革命が始まる1789年から第一次世界大戦が勃発する1914年までをとし、「短い20世紀」とは1914年からソビエトが崩壊する1991年までという区分だ。なぜフランス革命から第一次世界大戦までが長い19世紀かというと、ホブズボームがこの時代を「啓蒙思想の時代」と考えているからだ。

理性を尊重すれば、理想的な社会を造ることができる。そう考えた当時の人々は、政治的には「民主主義と」と「自由主義」を、経済的には自由経済を基盤とする「資本主義経済」を発展させていった。しかし、行き着いた先は「大量破壊と大量殺戮」だった。ホブズボームはここに時代の区切りを見たのだ。

ホブズボームは「短い20世紀」の時代を『20世紀の歴史―極端な時代』で「破局の時代」「黄金時代」「危機の時代」に分けているという。破局の時代は第一、第二次世界大戦で、ホブズボームはこの戦争を二つの戦争とはとらえず、ひとつの戦争「三一年戦争」ととらえている。危機の時代を乗り越えておとずれた「黄金期」の改良資本主義は結局は行き詰まり、新自由主義へと移行するのだが、この結果も「経済的にもはなはだ悪く、社会的、政治的には壊滅的なものに終わった」とホブズボームは述べているという。

さらにホブズボームはグローバル経済が国家を解体していくにつれ、「知的な無力感」が「絶望的な大衆感情」が結びつき大きな政治的力になっていることを懸念する。この状況は同著が発売されて20年が過ぎた現在もそのまま当てはまる。ここから、佐藤優は「短い20世紀」は未だ終わっておらず、現代は「長い20世紀」のさなかではないか、と仮説をたてる。

「長い20世紀」という危機の時代を生きる我々は、この危機を生み出した近代という時代がどのようなものであったか一度、振り返ってみる必要がある。

近代を読み解くうえで最初に紹介される本がエルンスト・トレルチ著の『ルネッサンスと宗教改革』だ。近代の始まりとされるルネッサンスと宗教改革だが、実はともに真の意味での近代の始まりを意味しないという。初期のプロテスタンティズムはカトリックと同じで国家は宗教に規定される、としていたという。つまり、初期のプロテスタンティズムから近代的の政教分離という思想が直に生まれてきたのではないとトレンチは考察している。

ではなにが人類を近代へといざなったのか。それは、30年戦争の果てに締結されたウェストファリア条約であるという。ウェストファリア条約により国家は宗教という軛から解き放たれた。このことにより、国家が宗教の代わりに共同的目的を供給するようになる。国家が宗教の代用をなすようになった。またウェストファリア条約が締結されたこの時代は「科学革命の時代」とも言われる時代でもあり、科学的合理主義が宗教の代用物としての地位を手に入れた、国家にも合理主義を与えることになる。

しかし、トレルチは「こうした合理主義的な国家像は、不可避的に〝非合理な力〟を生み出してしまう」という。著者はこの言葉こそトレルチの洞察の鋭さだと指摘する。

国民国家や民主主義を発達させた、近代国家が内包する非合理な力の源がなんであるの。そしてそれが、資本主義経済においてどのような効果を生むのか、その結果、何が生じるのか、詳しくは本書を読んで確かめて欲しい。また本著の後半は教養を身に着けるために、電子書籍をいかに使いこなすかといった実利的なハウツー本としても読むこともできる。

啓蒙思想は大いなる光を生んだ。しかし、光が強ければその影の闇もまた深い。啓蒙思想の闇が生み出した非合理な力は、今も私たちの社会を覆っている。そこから生まれる、排外的な思想やヘイトスピーチといった反知性主義が日々その力を増している。そして、この反知性主義は日常的に読書を行う習慣を持つ教養人が、思想の組み立てや教養の構築を怠ることから生まれる隙間を縫うように物語を語り出す、と著者は指摘する。いま身につけるべき教養とはなにか。本著は、現代を生きる私たちが持つべき「羅針盤」がどこに存在するのかを示した、一枚の地図なのである。

HONZより転載
プロフィール

後白河

Author:後白河
1978年愛知県生まれ。10代の頃は中学3年で登校拒否、高校中退、暴走族の構成員とドロップアウトの連続。現在は自動車部品工場に勤務。気がつくとなぜかHONZのメンバーに。趣味は読書、日本刀収集、骨董品収集、HIPHOP

成毛眞氏が運営するHONZというオススメ本紹介サイトでレビューを書いています。
http://honz.jp/



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